2002年10月22日

印鑑が出来上がる。瀧の観音寺へデジカメ撮影。

午後、実印を取りに行った(なかなか格好良いものが出来上がりました)後、瀧の観音寺へデジカメ撮影。小学生時代に写生に来た時以来なので、約30年振りなのですが、上り坂の階段が急できつかったこと以外は覚えてませんでした。今回も運動不足のせいで、かなりきつい坂(階段)を上ると、空気は涼しかったのに、かなり汗をかきました。木に覆われてもともと薄暗い場所のうえ、この日は一日中曇っていて、撮影には向かなかったので、フラッシュ焚きっぱなしになってしまい、境内の澄んだ雰囲気が捕らえられず、あまりいい写真が撮れませんでした。とりあえず資料画像という感じで約30分ほど撮影。まぁ日を改めて、また来ようと思います。(※620LX日記より)
瀧の観音寺
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2002年10月30日

小森江〜淡島神社をデジカメ撮影

「はるちゃん6」を見てから、小森江駅近くにあるレンガ造りの倉庫群をデジカメ撮影に行く。
レンガ倉庫群
ターゲットだった倉庫群は外装を修繕しているのか、一部足場が組まれていて、撮影にはちょっと不向きだった(;_;)ので、数枚撮っただけで早々に去る。その他日本製粉や協和醗酵の工場を撮ってから、昨日訪れた林芙美子生誕地記念文学碑へ向かう。途中で下校中の門商生徒の大群が道いっぱいに広がって歩くところに遭遇。先生方、交通規則をちゃんと教えてやってください。記念碑のある場所へ着き、猫がうろつく中、数枚撮影。
林芙美子生誕地記念文学碑
今度は永黒方向へ下り、大山祇神社へ向かう。伊川へ向かう道路(県道262号)に出て、しばらく行くと、コンビニの駐車場にパトカー5台(覆面1台を含む)が止まっているのを目撃。近づいて様子を見てみるが、捜査員が1台の黒い車を囲み、ボンネットまで開けて何やら調べているらしい。でも何の事件なのかよくわからないまま10分位してから、その黒い車と共にパトカーも去っていった。何だったんだろうなぁ、気になる。それから再度大山祇神社へ向かったが、参道の途中で、拝殿の屋根を普請しているところを見つけた。なんとも今日はよく「工事中」に当たる。ということで、撮影は後日にまわし、再度県道262号に戻ってしばらく歩き、赤い社殿が鮮やかな淡島神社へ到着する。淡島神社には多分初めて参拝するなぁ。境内は狭くて、夕暮れも近かったので誰もいない。ここで境内や夕陽に染まる山際などを数枚撮影し、冷えてきたし、お腹も空いたので帰ることにする。(※620LX日記より)
淡島神社
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2002年11月01日

広寿山福聚寺、手向山

「はるちゃん6」を見てから、足立山麓の広寿山福聚寺へデジカメ撮影へ。大里東口からバスに乗って、砂津で霧ヶ丘行に乗り換え、広寿山バス停で下車する。鳥のさえずりだけが聞こえる静かな境内を約1時間位かけて、50枚程度撮影する。
広寿山福聚寺
バスには乗らず、赤坂を経由して歩き、手向山まで行く。多分小学校の遠足以来で、非常に懐かしい。大里地区の幼稚園や小学校の春の遠足といえば、だいたいこの手向山に登っていた(先々月のオフ会でPAKUさんから聞いた話では、富野辺りの小学校の遠足も手向山だったそうだ)し、小学1年生までは住んでいた場所の裏山から手向山に通じる道があったので、遊び場所として遠征したことも何度もあった。今回小倉側の入り口から登ったが、こちら側から登った記憶はないので、多分初めてだろう。17時も近くなり薄暗くなった中、車1台が通れる程度の幅の道をくねくね曲がりながら登っていく。この雰囲気は比治山を思い出すなぁ。一番上の広場に出ると、昔懐かしい宮本武蔵の碑と佐々木小次郎の碑が少し間を空けて並んでいる。元々手向山は養子である宮本伊織の領地(伊織自身の墓もあるらしい)で、武蔵碑は武蔵の死後10年目に作られたものらしい。
宮本武蔵の碑
来年の大河ドラマは宮本武蔵の物語ということなので、少しは観光客が訪れることになるのだろうか。展望台(小学校の頃には無かったよなぁ)に上り、夕暮れの関門海峡を眺めながら、門司の街や小倉や戸畑の工場群を撮影。
手向山からの眺め
やっぱりこの景色は好きだなぁ。展望台を下りて、ジョギングや犬の散歩をしている人たちがポツポツいる公園内を歩き、弾薬庫跡の前に出た。明治以降この辺りは要塞地区だったため、昔の砲台とか探照燈の設置跡などが多く残っているが、特に手向山で印象に残っている場所はこの弾薬庫(ただ、小さい頃からつい最近まで、この穴は防空壕だと思っていました)で、今は入り口がブロックで塞がれていますが、幼稚園の頃はまだ開いていて、この薄暗い中に入るのが結構恐かったことや、壁いっぱいにチョークか何かで書かれた落書きがあったことを覚えています。辺りをいろいろ撮影しているうちに、日が落ちてしまって撮影不可能になったので、門司側の道から下りて帰る。昔通っていた田んぼの真ん中の細い道は、住宅地として整地された時に潰されて、陸軍の軍道であることを示す石の標識も今はもう無い。(※620LX日記より)
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2002年11月19日

御所神社、原町、199号線

「はるちゃん6」を見てから、金山堂にビデオを返しに行った後、昨日読んだ「門司と小倉の歴史から九州がわかる話」に御所神社に安徳天皇の木像が奉られていた石室があると書いてあったので、その存在を確認しておこうと思い、御所神社に行く。本殿の裏に行くと、確かに扉を縄で縛られた小さな石室がありました。今は木像はどうなっているんでしょうか・・・。
御所神社石室
3号線を歩き原町別院近くの鹿児島本線の線路脇に行く。ここは小学校の時の同級生のおかあさん(今思い出すと、同級生のおかあさんにしては若くて、ちょっとエッチだったなぁ(^^;))が働いていた床屋があった場所で、何度か髪を切りに来たことがあった。プレハブの小さな小屋には「JR BARBER」という看板はあったが、なんだかもう営業をしていないようだ。
思い出の散髪屋
線路をくぐって、199号線へ出る。大型トラックが行き交う車道の脇、人一人がやっと通れる程の狭い歩道を歩き、旧サッポロビール工場前にある住吉神社へ寄った後、旧長崎街道を通る。大里東口から3号線に出て、再度金山堂に寄る。「ウルトラセブン」5,6,7巻を借りて帰宅。(※620LX日記より)
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2002年11月20日

猿喰城跡、木舟社など

「はるちゃん6」を見てから、デジカメを持ち出して外へ出る。今回は七ッ石峠を越えて猿喰(さるはみ)方面へ行くことにした。城山霊園前を左に曲がり、しばらく歩くとT字路にあたった。左に曲がると東部斎場がある。右に曲がる所で猿喰城址登山口の看板があり、せっかくなので登ってみることにした。登山道はかなり急で、枯れ葉が落ちて滑り易くなっている。運動不足のうえに体重も増えているためか、かなり早く足に疲労がきて、すぐに息が上がる(xox)。昔の武将達が鎧兜を付けて攻め上ったというのだから、すごい体力だよなぁ。額の汗を拭きながら休み休み登って、10数分で頂上に着く。山頂にはNHKと民放共同のテレビ中継放送局のアンテナがそれぞれ立っていて、その奥に小さな石室と「猿喰城址」の石碑があった。
猿喰城址
息を整えながら、20分程度で何枚か撮影。滑りそうになりながら山道を下りる。近くに「七ッ石峠」の名の由来である、七つの自然石の墓があるはずだが、わからなかった。また後日探してみよう。
峠を下っていく。「でっか字まっぷ北九州」を見ると、このあたりに「本舟社」という神社があるらしいので、行ってみることにした。脇道に外れて集落の中を通ると、奥の方に鳥居と小さな社殿があった。
木舟社
両手を合わせた後、何枚か撮影。ガラス戸の閉まった拝殿の中を見ると、扁額が掲げられていて「木舟社」とある。鳥居の近くで畑仕事をしていたおじさんに尋ねると、やはり<きふねしゃ>であるそうだ。門司には「貴船神社」、「貴布祢神社」と、<きふね>と名の付いた神社がいくつかあるが、多分同じ意味だろう。先のおじさんの話では、だいたい神社の造営は400年位前で、本殿は5年前に建て替えたばかりだそうである。
九州自動車道の下を過ぎ、門司北高校前の交差点に出て、完全に産業道路化している県道25号線を畑方面へ歩いていく。猿喰にある厳島神社へ寄ろうと思ったが、西側に山のある新門司は日が暮れるのが早く、ちゃんと撮影するには暗くなり過ぎたので、このまま帰ることにする。畑の交差点を右に曲がり、玉泉寺前を通り、鹿喰トンネルを抜ける頃には完全に暗くなった。汗をかいた後でもあり、日が落ちるとさすがに寒くなる。家に帰り着くと、湯どうふだった。暖まるなぁ(^_^)。
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2002年11月24日

門司港から田野浦までの撮影

昼食後、デジカメを持って外出。金山堂で本を立ち読みした後、小森江駅から電車に乗って門司港へ向かう。今まで撮っていなかった関門連絡船通路跡や0哩標、駅舎2階の旧貴賓室などを撮影。フリーマーケットで賑わっている駅前を抜け、萬龍のある通り(CXの月9ドラマ「ホーム&アウェイ」の先週放送分で映ってましたね)や、平民食堂の看板、放浪記の店先を撮影。
平民食堂
それから佐藤書店に寄って、門司関係の古い本を物色。「門司市史」や「門司郷土叢書」など、貴重な本が揃っていますが、いずれも高価で手が出せないですねぇ。先日書いた「高麗町」や「百済町」の存在を確認したかったので、昭和初期くらいの古い地図も探してみたのですが、それは見当たりませんでした。また今度、違う古本屋に行って探してみようかね。佐藤書店を出てから、東本町の岩田酒店へ。全景を撮影しようとしたが、場所が関門国道トンネル入口の近くで、しかも休日ということもあり、下関側へ向かう車で道が混雑しており、撮ろうにもフレームにどうしても車が入ってしまうため、早々にあきらめ、看板や窓など部分的な箇所を中心に撮影した。
岩田酒店
昔の商店の面影を残していて、屋根なんか重厚で、ちょっと圧倒される感じがします。ほんの数年前まで営業していたらしいのですが、今は借りてくれるところを見つけている最中らしいです。
部埼まで行くつもりで、和布刈方面へと歩く。和布刈神社の一の鳥居前で3,4台のバギーと遭遇する。和布刈神社でお参りし、周辺を少し撮影(海峡とか、おでんが地元では有名な若松商店など)する。古城山の麓を海沿いに歩き、田野浦海岸にある旧門司米穀倉庫に着く。
旧門司米穀倉庫
ここは昭和2,3年に建てられた10棟の建物で構成されていて、大きな切妻屋根が特徴的で非常に圧巻です。敷地内には入れないので、閉まった門の隙間から写真を撮っていると、犬の散歩をしていたおばさんに声をかけられた。昔はトラックや船で大量の米が運ばれていって、すごく賑やかだったという話をしてくれた。「今はまったく駄目になってねぇ」とも言っていたが、確かに倉庫の屋根も痛んでいて、穴が空いてしまっていたりして、栄光も今は昔の態になっている。
さらに田野浦の方向へ進んで、埋め立て地に建っている三井鉱山や小野田化学の工場の横を通り、途中に仁吉社(ひとよししゃ?)という神社を撮影したりして、田野浦に着く。立派な鳥居をくぐって結構長い階段を上ると春日神社があった。「春日神社」と彫られた立派な石碑とは対照的に社殿は荒れていて、屋根に穴は空いているし、天井板はほとんど無くなってしまっている。
春日神社
本殿の扉も取れかかっているようである。社殿横に植えられたいちょうの黄色がなんとも悲しい。階段を下りて、人家の迫った細い道を歩くと、大里本町で見るような格子窓の家が数軒ある。田野浦は元々北前船(わからない人は事典で調べてください(^^;))の寄港地であったことから、今では想像も出来ないが、かなり賑わっていたらしい。これらの家もその頃の名残なのだろうか。
このまま部埼まで行くには、時間的に遅くなってきたので、ここで帰ることした。折戸口の交差点まで行くと、米穀倉庫で会った先程のおばさんに又会った。今度は犬を2匹連れている。なんでも犬は4匹飼っているそうだ。歩きながら、おばさんの旦那さんが地元大久保の出身で80年も住んでいることや、田野浦に遊郭のあったことや、昭和28年の大水害の時は近所の崖が崩れて何人か死んでしまったという話を聞いた。大水害の話は、学校の社会科の授業でも親からも聞いているし、関門トンネルが水没した(現在は、その時の教訓で、トンネル入口を閉める鉄の門が設置されている)ことも知識として知っているが、直に話を聞くと、やはり実感してしまう。
米穀倉庫のところでおばさんと分かれ、和布刈まで戻る。まだ少し時間があったので、海峡の風景を少し撮影して、久しぶりに関門人道トンネルを歩いてみることにした(無料だしね)。エレベーターで地下まで行くと、結構人が通っている。なかでもジャージ姿の人が多く、トンネル内を運動のためにジョギングなんかをしているようだ。しばらく歩き、山口県との県境に着く。
関門人道トンネル
このまま下関まで歩いていくと、それこそ帰りが遅くなるので、ここで引き返す。エレベーターで地上に着くと、すっかり日が暮れていて、もう真っ暗だ。少し急ぎ足で門司港駅まで歩いていく。かなり足が疲れてしまった。(※620LX日記より)
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2002年12月23日

猿喰新田付近をデジカメ撮影

天気がもちそうだったので、「はるちゃん6」を見てから、デジカメを持って外出する。七ッ石峠を通って猿喰まで歩く。新門司病院近くにある新池に寄ってから、門司北高そばの石原宗祐翁頌徳碑へ行く。
石原宗祐翁頌徳碑
石原宗祐は大里村の庄屋で、享保の大飢饉の経験から私財を投じて猿喰海岸を干拓し新田を開き、後に小倉藩からの要請で(これまた私財を使って)曽根新田の開発をおこなった人物で、郷土の恩人としてその名が語られている。これらの新田のおかげで、後の天明の大飢饉でも餓死者0名だったらしい。この辺りはその当時に造られた堤防や溜め池が残っている。
門司北高の横を通って、猿喰海岸側へ向かうと、猿喰新田の汐ぬき穴と呼ばれる穴がある。用水路からの排水や新田の塩分を抜くために使用したそうで、元々は4個あったそうだが、現在は2個だけ残っている。直径1.5m位の穴の周りに石で造られた頑丈な枠がある。ここで10数枚撮影する。
汐ぬき穴
新田の中の道を歩く。新田の真ん中に小さな森があり、そこに厳島神社がある。この場所は元は裸島という島で、神社は新田で耕作する村人の安全と新田の豊作を願って石原宗祐が建てたものだそうである。小さな鳥居をくぐると左に大きく曲がった道があり、進んでいくと小さな石室と祠堂があった。ここで数枚撮影する。
厳島神社
再度汐ぬき穴のところまで戻り、そこから猿喰海岸へ出る。埋め立てで陸続きになった軽子島が見える。
軽子島
海岸線は整備されていて、海を眺めて休憩するのに良いようにベンチやテーブルが作られている。ゴミが落ちていないところを見ると、来る人はあまりいないようだ。海岸に降りたオジサンがひとり、何かを獲っているのが見える。
柄杓田の天疫神社に行こうと思ったが、暗くなり始めたので止すことにし、柄杓田に抜けるトンネルの手前から西に曲がり、伊川の交差点方向へ歩く。伊川の辺りは古い家が多く、珍しく土塀なんかが残ってます。大里伊川線に出てから円楽寺に寄る。鐘楼の隣に「産婆中野シノ之碑」があるが、何でしょうかね? 
産婆中野シノ之碑
大里伊川線に戻り、しばらく歩くと、九州自動車道の手前で鳥居が見えたので寄ってみる。何故か「天疫神社」と「貴舩神社」の扁額がふたつ並んでいる。社殿は一棟だけなので、どうしてこうなっているのか分からない。再び大里伊川線に戻って九州自動車道の下をくぐり、JR西日本の変電所脇を過ぎる。ここから先は歩道が無いので、車に注意しながら、くねくね曲がった峠道を登る。歩くには(特に夜は)危ないかもしれない。淡島神社の横を通って帰宅。(※620LX日記より)
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2003年01月21日

大積天疫神社、河童の証文石、白野江の野江谷公園

午後から、田郷利雄著の冊子「門司と小倉の歴史から九州がわかる話8 源氏と平氏と北九州(三)伝説とエピソードで語る北九州版「平家物語」」に載っていた、河童の伝説が多く存在する大積へ行き、河童の残した証文石を見ることにした。冊子からの受け売りになりますが、大積の河童伝説は、壇ノ浦合戦で海に身を投げた能登守平教経(壇ノ浦合戦で源義経を追いまわした武将で、彼から逃れようと義経が船を跳び渡ったのが有名な「八艘跳び」である)の妻の遺体が大積の浜にうち上げられ、それをあわれんだ里人が乙女山の麓に葬り、海御前(あまごぜ)の墓としたことから始まり、その海御前が源氏ゆかりの者達への恨みをはらすために室町時代初期に九州一円の河童の総帥として蘇ったというものです。証文石とは、海御前から源氏ゆかりの者へ危害を加えるよう命じられた一匹の河童が、河原にいた大積丸山城主である門司(もんじ)親秀の馬を淵に引きずり込もうとして失敗し、親秀に切られようとした時に、二度と悪事を起こさないことを誓い、近くの岩を証文としたという伝説からきています(この証文石伝説は他にも白野江、柄杓田、和布刈の梶ヶ鼻にもあるそうだ)。
小森江から電車で門司港へ行き、そこから白野江行きのバスに乗り換える。大積農協前で下車し(実際は大積東口で下りた方がよかったようだ)、喜多久方面へ向かう道を宮前橋付近まで歩くと、山(乙女山)の麓に鳥居が見えてくる。ここが大積天疫神社で、11月には大積神楽(市指定無形民俗文化財)がおこなわれる。
大積天疫神社
神社内には海御前の墓と石碑、河童の像、海御前を祭った水天宮があります。神社内はあまり広くないが、静かで、きれいに掃除されている。ここで20枚ほど撮影する。神社前から細い道を進むと、乙女橋という小さな橋があり、ここが河童が馬を淵に引きずり込もうとした乙女ヶ淵だったらしい。道から少し高い場所に証文石(石には「証文岩」と彫られている)と、乙女ヶ淵を覗き込むように河童の像が立っている。
証文石と河童像
薮の中から見える河童像は、ちょっと恐いですねぇ。近づいて見ると、表情がなんだか怒っているみたいだし(^^;)。それから、野江谷公園(白野江植物公園の向かいにある小さな公園)にある証文石を訪ねる。
野江谷公園の証文石
この証文石は白野江小学校の裏山の中腹にあったものを移動したものだそうだ。形は細長くて、なんとなくきれいに磨いたような感じがする。ここで5,6枚撮影。やはり前述の冊子に書いてある殿墓(とのばか)を訪ねるために八木田まで歩く。途中に大積丸山城址があるはずだが、特に案内板が出ていないので、場所はわからなかった。
「八木田前」のバス停まで行くと、殿墓のある場所を示す標識があったので、それに従って細い坂道を上っていった。殿墓とは、黒川在住の八木田氏の祖先である平休意(やすおき)一族の墓と伝えられているもので、この休意なる人物は、平家の総大将平知盛(あるいは宗盛)に命じられて宇佐神宮へ平家の戦勝祈願に行き、その帰路の途中平家滅亡を知り、一族とともに黒川の地に身を隠し、後に姓を「八木田」と改めたと伝えられています。途中に「八木田」の表札がかかった大きな家があり、立派な門がある。冊子によると、この坂道の一番奥にあるはずなのだが、突き当たった場所が三叉路になっており、右に行くと墓地だが、まだ新しい墓が横一列にならんでいるだけであり、左に行くと民家の中に入りそうで、少し進むとそこの飼い犬に吠えられた。結局場所はわからず仕舞になってしまった。場所については少し調べた方がよさそうだ。バス通りに出て、すぐ傍にある神社に寄る。
黒川貴船神社
地図には載っていなかったが、鳥居を見てみると、ここも「貴舩社」である。ほんとに「キフネ」の名を持つ神社が多いなぁ。荒れた感じは無いものの、あまり人が訪れることはないようだ。ここで数枚撮影。黒川からバスに乗り、門司港駅まで行き、電車で小森江まで戻り帰宅する。(※620LX日記より)
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2003年02月01日

和布刈神事

行ってきました、和布刈神事。
和布刈神事について説明すると、航海の安全と豊漁を祈願して、旧暦の大晦日から元旦にかけて、干潮時に和布刈神社前の海でワカメを刈り神殿に供えるもので、古くは「李部王記」という書物に、710(和銅3)年に神事で刈ったワカメを朝廷に献上したことが記されているそうだ。現在は県指定無形民俗文化財になっています。長いこと門司に住んでましたが、まだ一度も行ったことがなかったので、この機会に行ってみようということになりました。1時頃家を出て、和布刈神社近くの駐車場に車を停める。既に神楽などが始まっている。持ってきたデジカメで神楽をしばらく撮影してから、ワカメを刈る場所に近い、灯篭を見下ろす場所に行くと、既に海岸沿いに観客が70〜80人並んでいる。灯篭を目の前にする場所の2列目に位置取る。絶好の位置ではないものの、前列は背の低いオバチャンと中年のおニイさんなので、海はよく見える。海上には警備船が1隻、潮の流れに逆らいながら停止している。団体客も結構いるらしく、大阪の高槻から来た俳句の会のオバサン達もいるらしい。潮の流れの速い海峡と、潮がひいて岩肌の見えてきた海岸を眺めながら、約1時間10分待つ。神事の始まる直前には次第に人も集まり、300人くらいが狭い境内にあふれる。2時40分頃、大きな松明を持って、神官が3人海岸に降りていき、神事が始まった。松明だけ照らした岸をあちこちに移動して、ワカメを刈り取る。一度波をかぶって松明が消えてしまうハプニングがあったが、再度点火して続ける。その様子をデジカメを持った手を伸ばして撮影するが、さすがにほとんどピントがあわない。ピントがあっても、押し合う客の間に挟まれて、手がぶれてしまう。それでも撮り続ける。
和布刈神事
3時頃、もう1本の松明と共に報道関係者も海岸に降り、報道用のカメラ撮影がおこなわれる。それをまた撮る。3時10分頃、刈り取ったワカメを神殿に奉納して神事は終了。3時30分頃帰宅し、そのまま就寝。
朝は9時半頃起床。神事を写した画像を約70枚確認しましたが、その中で多少きれいに見えるものは3枚でした。他の画像は、ぶれていたり、ピントが合っていなかったりしていますが、まぁ雰囲気は出ているので、破棄せず保存することにしました。(※620LX日記より)
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2003年02月28日

葛葉、風師周辺など

午後、ハローワーク門司へ行き、求人票を閲覧する。ソフト関係の会社で、めぼしいものをチェック&メモする。でもなぁ、年齢とか開発経験年数とかの条件が合わないものばかりなんだよなぁ。会社では、C言語での開発は半年しか経験ないし、ほとんどの求人にはJAVA、Oracle、VC、VC++などが1〜3年経験になってるし・・・。古いタイプの電子交換機用の言語しか知らないんで、ほんとに潰しがきかない。どこか講習に行こうかなぁ。
1時間ほどしてハローワークを出て、門司港方向へ歩く。今度はデジカメ撮影。旧電車通り沿いに葛葉や風師周辺の坂道や階段を上って、古い洋風の個人宅(裏に荒廃した神殿があったが、なんという神社だったのだろう)や海峡の風景、日本セメント工場跡などを数十枚撮影。
日本セメント工場跡
山の斜面に張りついて建つ家々の間を歩いていると、ごみを入れておく蓋付きのコンクリート造りの箱を見つける。門司でも古い家が並んでいる場所には残っているようだが、街中ではほとんど見なくなりました。さらに歩き続けて、門司区役所、清滝のバイパスから見たレトロ地区、工事中の鉄道記念館、明治屋側壁の三つ鱗マーク、鎮西橋跡の橋柱などを撮影。
明治屋側壁の三つ鱗マーク
埋め立て前は、この辺りには堀川という運河があり、甲宗八幡神社下まで伸びていたらしい。
バスで東通り6丁目まで行き、デジカメ画像のバックアップ用に焼いたCDにラベルを付けようと思い、ベスト電器門司店でインクジェットプリンタ用のCD/DVDラベルとインデックスカードを購入。
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