2003年01月21日

大積天疫神社、河童の証文石、白野江の野江谷公園

午後から、田郷利雄著の冊子「門司と小倉の歴史から九州がわかる話8 源氏と平氏と北九州(三)伝説とエピソードで語る北九州版「平家物語」」に載っていた、河童の伝説が多く存在する大積へ行き、河童の残した証文石を見ることにした。冊子からの受け売りになりますが、大積の河童伝説は、壇ノ浦合戦で海に身を投げた能登守平教経(壇ノ浦合戦で源義経を追いまわした武将で、彼から逃れようと義経が船を跳び渡ったのが有名な「八艘跳び」である)の妻の遺体が大積の浜にうち上げられ、それをあわれんだ里人が乙女山の麓に葬り、海御前(あまごぜ)の墓としたことから始まり、その海御前が源氏ゆかりの者達への恨みをはらすために室町時代初期に九州一円の河童の総帥として蘇ったというものです。証文石とは、海御前から源氏ゆかりの者へ危害を加えるよう命じられた一匹の河童が、河原にいた大積丸山城主である門司(もんじ)親秀の馬を淵に引きずり込もうとして失敗し、親秀に切られようとした時に、二度と悪事を起こさないことを誓い、近くの岩を証文としたという伝説からきています(この証文石伝説は他にも白野江、柄杓田、和布刈の梶ヶ鼻にもあるそうだ)。
小森江から電車で門司港へ行き、そこから白野江行きのバスに乗り換える。大積農協前で下車し(実際は大積東口で下りた方がよかったようだ)、喜多久方面へ向かう道を宮前橋付近まで歩くと、山(乙女山)の麓に鳥居が見えてくる。ここが大積天疫神社で、11月には大積神楽(市指定無形民俗文化財)がおこなわれる。
大積天疫神社
神社内には海御前の墓と石碑、河童の像、海御前を祭った水天宮があります。神社内はあまり広くないが、静かで、きれいに掃除されている。ここで20枚ほど撮影する。神社前から細い道を進むと、乙女橋という小さな橋があり、ここが河童が馬を淵に引きずり込もうとした乙女ヶ淵だったらしい。道から少し高い場所に証文石(石には「証文岩」と彫られている)と、乙女ヶ淵を覗き込むように河童の像が立っている。
証文石と河童像
薮の中から見える河童像は、ちょっと恐いですねぇ。近づいて見ると、表情がなんだか怒っているみたいだし(^^;)。それから、野江谷公園(白野江植物公園の向かいにある小さな公園)にある証文石を訪ねる。
野江谷公園の証文石
この証文石は白野江小学校の裏山の中腹にあったものを移動したものだそうだ。形は細長くて、なんとなくきれいに磨いたような感じがする。ここで5,6枚撮影。やはり前述の冊子に書いてある殿墓(とのばか)を訪ねるために八木田まで歩く。途中に大積丸山城址があるはずだが、特に案内板が出ていないので、場所はわからなかった。
「八木田前」のバス停まで行くと、殿墓のある場所を示す標識があったので、それに従って細い坂道を上っていった。殿墓とは、黒川在住の八木田氏の祖先である平休意(やすおき)一族の墓と伝えられているもので、この休意なる人物は、平家の総大将平知盛(あるいは宗盛)に命じられて宇佐神宮へ平家の戦勝祈願に行き、その帰路の途中平家滅亡を知り、一族とともに黒川の地に身を隠し、後に姓を「八木田」と改めたと伝えられています。途中に「八木田」の表札がかかった大きな家があり、立派な門がある。冊子によると、この坂道の一番奥にあるはずなのだが、突き当たった場所が三叉路になっており、右に行くと墓地だが、まだ新しい墓が横一列にならんでいるだけであり、左に行くと民家の中に入りそうで、少し進むとそこの飼い犬に吠えられた。結局場所はわからず仕舞になってしまった。場所については少し調べた方がよさそうだ。バス通りに出て、すぐ傍にある神社に寄る。
黒川貴船神社
地図には載っていなかったが、鳥居を見てみると、ここも「貴舩社」である。ほんとに「キフネ」の名を持つ神社が多いなぁ。荒れた感じは無いものの、あまり人が訪れることはないようだ。ここで数枚撮影。黒川からバスに乗り、門司港駅まで行き、電車で小森江まで戻り帰宅する。(※620LX日記より)
posted by seamoon at 00:00| 調査・撮影 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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