2006年11月25日

秋の吉志周辺と大里、40年という年月。

12月は公私共に忙しくなりそうなので、多分今年最後の門司訪問になりそうです(とか去年も言いながらクリスマスイブにもう一度訪ねたので分からないですけど)。ただ、今回の訪問の一番の目的は、うちの両親が小倉に住む叔母のところに用事があり、私も少し手伝わないといけないということで、そちらを優先するため時間的に色々は回れないというのがあったので、一番気になっていたところを2,3件回ることにした。それと、先日出版された庵田さん達の編著「北九州の近代化遺産」が福岡市内の書店には置いていないようなので(紀伊国屋書店福岡本店には置いておらず、ジュンク堂についてはホームページからの検索をおこなったが該当0件だったので、福岡市での購入はあきらめましたが、後日ジュンク堂書店へ寄った際に3階に置かれていたのを発見しました。公式ページによると、その他福岡市内の主要書店にも置いてあるそうです。)、久々に小倉のクエストに行って購入するという目的もありました。今回は父親の車で移動することになったので、筑紫野市からの往復を運転する(最近、長距離の運転は家族の中の私の役目になりつつあります)。朝10時半少し前に自宅を出発し、太宰府ICから九州自動車道に乗り、一路北九州へ。新門司ICから出て吉志方向へ。吉志の天疫神社近くで父親と運転を交替し、私はここで降りる。

最初に天疫神社横の山腹にある御神体を納める石祠の撮影をしようと思い、拝殿横の階段を上って、上の角度から拝殿を3枚ほど撮影していたところ、カメラのバッテリ切れの警告が。バッテリ交換しようとしたところ、いつもは予備に持っている単3アルカリ電池のパックが鞄に入ってない・・・。しかし、こういう時に専用充電池ではなく市販のアルカリ電池が使えるPowerShot S2 ISは心強い。かと言って近所にコンビニもないので、西鉄バス恒見営業所近くのセブンイレブンまで行き、パナソの4個パックを買う。丁度お昼時だったので、どこかで食事を・・・と思い、グリーンパルの方向へ歩いていくと、「焼肉定食」の幟が目に入った食堂に入る。店内に入り、おネエさんにしょうが焼き定食を注文し、ケータイでネットを巡回していたが、しょうが焼き定食がなかなか来ない・・・。同じくらいに入った他のお客さんのハンバーグ定食は5分前には出されている。注文から20分くらい経ってから、先ほどのおネエさんがやってきて「注文、御聞きしましたかね?」と聞かれる(^^;)・・・「いや、しょうが焼き定食、頼んでたんですけど・・・」「あ、失礼しました」。その後10分くらいしてやっと運んできた。定食自体は美味くも不味くもなかったが、付いていたアサリ味の味噌汁が美味しかったのと、おネエさんの明るさが救いだった。相変わらずおネエさんに弱いよなぁ(^^;)。

再び天疫神社へ戻る途中、松ヶ江南小学校の校内にある廣石紋太郎翁彰徳碑を撮影する。天疫神社に着いてからは、鳥のさえずりの聞こえる、誰もいない境内を撮影。
秋の吉志天疫神社

先ほどの続きで、再び階段を上り、今度は無事6基の石祠を撮影する。
天疫神社の石祠

神社を出て、次は4月に訪ねた際にMさんから話を聞いた戦墓と馬の墓、貴船原古戦場を訪ねるため、笠松の碑の方向へ向かう。いずれも笠松の碑の裏手にあると聞いていたのだが、正確な場所はよくわからない。とりあえず今回は下見程度の気持ちで行ってみると、やはり「これだ」という場所はわからない。次に来る前に正確な場所をMさんに確認しておこうと思います。あ、森戸長義のお墓の場所もですね。
貴船原古戦場辺り

次は大里に向かうため、吉志の町中を撮影しながら恒見バス営業所へ。
吉志の町中

戸上神社に寄りたかったので、藤松行きのバスの時刻表を見ると30分近くも待たないといけない。それならば、ということでグルーンパルまで歩き、店内の書店ショウエイで雑誌を立ち読みし時間を潰す。東部農協前バス停に定刻通り47番系統のバスが来たので、それに乗り込む。戸ノ上神社前バス停で下車し、戸上神社に参拝する(バス停では「戸ノ上(とのうえ)神社」、神社は「戸上(とのえ)神社」。一般的には「とのうえじんじゃ」と呼んでいて、若干ややこしいです)。
秋の戸上神社

拝殿では少し遅めの七五三だろうか、赤い着物を着た女の子と両親と祖父母らしき人達がお祓いを受けている。太鼓の音が聞こえる。
少し境内を撮影して、戸ノ上通りを海側へ下っていく。工事中のパチンコ屋の前辺りで、見覚えのある顔が向こうから歩いてくる・・・と思ったら歌う果物屋さんでした。声をかけようかどうか迷ったのですが、掲示板へは度々お邪魔しているものの、実は一度も面識が無く、また配達途中のご様子だったので、今回はそのまますれ違うことにしました。お店にも寄る機会があると思うので、その時にでもご挨拶しようと思っています。

次は大里本町を歩く。最近この辺りは「長崎街道大里宿」の青い幟を何箇所かに立てているが、どのような意図なんだろうか。観光化するという訳ではないとは思うんだけど。戸ノ上通りに近い側の、足掛け石のある家(廃家)は3年前に比べるとあきらかに痛んでいる。このまま壊れてしまうのは何か惜しい。その家の横には御高札・南郡屋跡の碑はつい最近建てられたらしい。
御高札・南郡屋跡碑

今は駐車場になっている、私の生家のあった場所を通りかかったので、一応写真を撮っておこうと思い、デジカメを構えていると、隣の家から年配の女性が出てきた。
私の生家跡

目があったので、会釈して写真を撮っていると、再び目があったので、ちょっと声をかけてみることにした。
私「あの、オバさんはここに住んで長いんですか?」
オバさん「ちょっと耳が遠いんでもう少し大きい声で言ってくれる」
私「(ちょっと声を大きめにして)ここに住んで長いんですか? 私は40年位前にここに住んでたんですが」
オバさん「あ、そうね。誰やろうかね」
私「○○(本名の姓)と言うんですが」
オバさん「(驚いた表情で)あ、薬の会社に勤めてた。子供さんが男の子ふたりで」
私「そうです、そうです。私、その長男の方で」
オバさん「ああ、可愛い子やったねぇ。あんたがそうねぇ。お父さんの面影があるわ」
私「(照れながら)そうですか(笑)」
オバさん「たしか3歳の時に社ノ木(実際は西新町ですが)に引っ越したんよね。お母さんはいい人やったね。お父さん元気にしてる?」
私「もう70過ぎましたけど、元気です」
オバさん「そうね、あんたがねぇ」
・・・もう40年も前のことなのに、いろいろ正確に覚えてくれていたことに感動を覚えてしまいました(後で小倉の叔母の家で両親にこの話をしましたが、両親もオバさんのことをもちろん覚えていて、気さくないいオバさんだったと言っていました)。私の生家は平成5,6年頃に来た台風で壊れてしまい、家を取り壊したという話を聞いた。私が生まれる前から会社の寮として父親が住んでいたのですが、当時ら大雨が降ると家中の畳を上げなければならないほどボロボロだったという話を聞いていたので、すんなり納得しました。台風ではなくても、海峡に近くて風が強いので、頻繁に家の修理をやっているそうで、オバさんの家の塗装も塗りたてという感じだった。しばらく世間話をしてから別れましたが、思い切って声をかけてよかったなぁ。

ラ・メール前にある石祠を撮影。石祠の中は恵比須像だったんですねぇ。
ラ・メール前の恵比須像

門司にも恵比須神社はいくつかあったそうですが、現在は全てがどこかの神社と合祀されている。恵比須神は商売の神だったり、農耕や漁業の神だったりしますが、今住んでいる筑紫野市には幾つも恵比須の絵が彫られた石が点在していて、今でも信仰の深さがうかがえるのですが、門司では風師神社にある蛭子尊の石塚くらいしか見ることが出来ない(和布刈にある「戎」の塚も多分そうだと思いますが、これについてはあまりよくわかりません)。
16時を過ぎ、そろそろ小倉に向かわないといけない時間になったので、門司駅前から小倉行きのバスに乗る。久々に行ったクエストで、今回購入目的だった「北九州の近代化遺産」、色々なところで紹介されていた「北九州の戦争遺跡」、それと八木田謙氏の「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」。やっぱり北九州関係の本は北九州の方が揃っていますねぇ。本の感想などは、また後日書きますが、「毛利元就と門司城」に書かれている藤松城の記述に多少興奮気味であります(^^;)。その後叔母の家に向かい、所用を済ませ、再び両親を乗せて、都市高速から九州自動車道を通り、筑紫野市へ帰る。久々に車を運転したので結構疲れました。
posted by seamoon at 00:00 | TrackBack(0) | 調査・撮影 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする